2015年06月27日
奏楽者は、礼拝など賛美歌を歌う場面において、会衆に仕える奉仕者である。
しかし、奏楽者自身もまず、神を賛美する礼拝者でなければならない。
礼拝の心、神を讃える心をもたなければ、
真に神へのおそれと、会衆への愛をもった奉仕はできないだろう。
奏楽者の心によって、その奏でる音楽には違いが生まれてくる。
しかし、奏楽者はあくまでも奏楽者なのである。
奏楽の第一の務めは、会衆が心から神に賛美の歌を献げることができること、である。
その奏でる音楽によって、自分が神を讃えることも、
その奏でる音楽によって、神の素晴らしさを伝えることも、
奏楽者の第一の務めではない。
礼拝の心、賛美の心は必須だが、
あくまでも会衆が第一であり、そのためになら、
自分の好む礼拝のスタイルや、自分の満足する賛美の形は捨てなければならない。
その意味で、奏楽者はあくまでも奏楽者なのである。
内側は心砕かれた礼拝者として。
外側は自分を無にした奏楽者として。
神と人とを愛する奏楽者を目指したい。
2015年05月22日
初めの記事で、賛美歌のもつ意味や、礼拝における役割、機能、
用い方を考える際に、その歌詞に注目することが有効であると述べた。
今回から、賛美歌の歌詞が
1.誰が
2.何について
3.どこに向かって
歌っているものかによる類型を挙げていく。
1から3それぞれに
a.神(あるいは神の側に立つ預言者的存在)
b.教会(クリスチャン)
c.世界(被造物全体)
の3つがあり、今回の「神賛美」は、
1-b「教会」が
2-a「神」について
3-a「神」に向かって
歌っている歌詞であり、類型としては「神賛美」b-a-aである。
例えば、「我ら 主を 賛美します」このような歌詞は「神賛美」の類型に当てはまる。
しかし、「さぁ 主を 賛美しよう」という歌詞はそうではない。
何故なら、この歌詞は神に向かってではなく、人(特に共に賛美する共同体)に向かって呼びかけているからである。(b-a-b)
「神賛美」の賛美歌は、神を直接讃える歌詞が特徴である。
私たちはこの「神賛美」をもって、大胆に神を讃える。
しかし、その言葉は私たちの心から出てきているだろうか。
神への恐れと、その素晴らしさへの感動をもって歌っているだろうか。
神に直接向けられる歌だからこそ、そのことを意識して歌いたい。
2015年05月02日
賛美歌の歌詞には様々なものがある。
純粋に神の素晴らしさ、美しさを讃えている歌詞から、
教会に集うクリスチャン同士が励まし合う歌詞まで。
それら全てが、「賛美」歌として用いられていることは、
言葉の上では問題があるかもしれないが、
「その歌が歌われる時に、結果として神が讃えられる歌」としては、
それら全てが神を賛美するための歌、「賛美」歌と言えるだろう。
ここで、その賛美歌のもつ意味や、礼拝における役割、機能、
用い方を考える際に、その歌詞に注目することが有効である。
その歌詞が
1.誰が
2.何について
3.どこに向かって
歌っているものかを考える。
そしてそれらそれぞれに、
a.神(あるいは神の側に立つ預言者的存在)
b.教会(クリスチャン)
c.世界(被造物全体)
の3つがある。
例えば、
1-b「教会」が
2-a「神」について
3-a「神」に向かって
歌う歌が、純粋な「神賛美」の歌だと言えるだろう。
ちなみに、②教会と③世界について、
宣教学の視点からそれらを分けることに異論があるかもしれない。
しかし、現在日本で歌われている賛美歌の歌詞の多くは、
これら二者の間に明確な線引きをしているものが多い。
そのため、現状の類型においては、これらをあえて分けて分類する。
そうすることで、そこにある宣教的課題も見えてくるだろう。
次回から、各類型について具体的に考えていくことにしよう。